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「一生(ひとよ)束の間」自(し)の為(な)すことを為すのみと滝川三九郎は思いきわめり
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by blue-lulubul | 2016-02-21 13:39

三年めの開花

もろともに光の海に落ちゆかん優しき風を揺らすシクラメン
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by blue-lulubul | 2016-02-20 06:25

短歌批評

昨夜(よべ)の雪積りてまばゆき空間にくれないの夢は椿咲かせる(lulubul)
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Isikawa hiro」の短歌批評  (lulubul)

*風さそう雪降る庭に燃えている白き椿の無音の叫び

 句切れの無い歌である。ゆえに一首がなだらかなリズムを持っている。
特に二句までの「風さそう雪降る庭に」の言いまわしも情景も美
しい詩情を醸し出している。

 だが、三句と結句の動詞が強烈なアクションなので、強く重い内容が韻律に)った歌となった。

 (風を誘いながら降っている雪の中燃えるように咲いてい    るのは、白い椿なのである。)ここで先ず読者の意表を突いてい る。
 なぜなら、「燃ゆる」という言葉から連想させられるのは一般的には、「赤」であるからだ。ここに硬質の美の魅力を醸し出される。
 さらに、結句では、その(白い椿声なき声叫んでいる。)のだ。

 映像的には風に舞う雪の中に咲いている白い椿という、単純な構図である。ここで、動いているものは風に舞う雪だけである。
 雪という清らかであるが、他方厳しさを伴う自然現象を受けて咲いている清楚なイメージの白い椿の叫びには、ある種の痛ましさを感じさせられる。
 この抽象の裏にある具体とは、(生きている限りは必ず感じる理不尽)であろうか。 
 同じ「白色」という素材の組み合わせに不思議な効果が生まれた。

*大欅の影を呑み込み紅の芝桜は領域を広げつつあり

 良く見てありのままを確り詠っている歌である。
 「芝桜」という小さな植物が大きな「欅」を飲み込んでしまうという逆転の発想が読者の意表を突いている。意表を突いてはいても「影」という現実の現象と、芝桜の持つ広くはびこ)り易い性質から抽象でない納得ができるのである。
 また、全体を読み終わった後に人間の事としても受け取れる全体喩となっている。小さなものが寄り集まって大きなものを凌駕する事は人間社会でも枚挙に暇がない。
 さらに、芝桜の華やかな色彩と欅の緑とその黒い影という、色の対比が印象を強めている。
 歌の質は高い


*千年の時空を越えて聞こえくる郭公の声に今朝を目覚める
  
 句切れの無い歌でなだらかなリズムである。

下の句の、作者が郭公の声に目覚めている具体がメインの歌である。
 上の句では、目覚め際の作者が、郭公の声をどのように聞いたかということを表現している。この部分は、聞く人によっていかようにも変化させることができる部分で、ここが作者ならではの個性の“見せ場”となる。
 作者は、「千年の時空を越えて来た声」と言っている。目覚め際の感覚からして納得ができる感覚である。作者の感性と詩としての価値がここに出た。

*音の無き病院の廊下を歩みゆく足裏に生き物きているような

 
揺らぎのある詩情を詠うのに適した三句切れの歌であるが、内容は重い。
 先ず、二句までの「音の無き病院の廊下」とは、消灯時間を過ぎて患者達の寝静まった病院内の廊下であろう。作者はそこを静かに歩んでいる。すると、自分の密かな足音でも、いやに大きく響いて感じられるのだ。だから、なお一層注意して歩く。すると、何だか粘っこいものがくっついたような足音になる。そのような現象を作者は「足の裏になにかの生き物がきているようだと」感じたのである。
 作者のこの感覚が、詩人としての特質なのである。
 病気を治すことを第一義とするはずの病院であるが、常に付きまとう「死」を思うときこの下の句は、不気味さを増す。
 作者の命への凝視を感じさせる一首である。

 








 


 


 






 





 









 

 







by blue-lulubul | 2016-02-16 21:26

短歌作品批評

わが短歌(うた)にも光当てたきとおもいつつ友の作品の批評しており
(lulubul)
 
短歌一首評  lulubul

*彼の岸に渡せし板より谷底へ落ちゆくわれの影を観ている(isikawahiro)

 句切れの無い歌である。ゆえに一首がなだらかで、静かなリズムを持っている。

 読み終わった後に現実の界とは異なった不思議な雰囲気を感じさせるのは、「谷底へ落ちゆくわれの影」というフレーズから来るものと思われる。現実にある作者自身の影が、谷底に落ちてゆくのを観ているという、現実にはあり得ない現象の抽象化が、大きく作用しているのである。

「彼の岸」とは、現実の向こう岸であり、またあの世のことでもある。しかも、その場所へ渡す橋が、いかにも危なっかしい「板である」というのだ。(もしかしたら落ちるかもしれない。)と言う思いを抱かせるには充分である。

そこで、作者は一気に影を谷底へ落としてしまうのである。落ちてゆくのは作者自身の影なのである。そこに、現実とはややニュアンスの違った迫真性が現れる。

さて、ここで作者は何を言いたいのであろうか。いつ何がおこるか分からない日々の中で、向こう岸にはあるかもしれない、希望とまでは言えないが、(安らぎのようなもの)を手に入れるためには、危ない橋を渡らねばならない。そして、作者の心は辿り着けないまま、影となって落ちてしまうのである。「影は作者自身の負の部分」と捉えても良いであろう。

 負の部分を落としてしまえば、向こう岸に在るものを手に入れられるかもしれないという思いも抱かせて一首を読み終わらせる。

 もう一つ、結句で一ひねりしてある。それは、「現実の作者」が「落ちゆく影を観ている」という設定である。例えば、共に橋を渡っている他者の影とも捉えられるが、それは少し不自然である。では、落ちて行った影は何か?それは、先にも言ったように「作者自身の心象の影」に違いないのだ。

作者はもう一人の自分を俯瞰しているのである。

創作に必要な事故を冷静に見つめる姿勢がここにある。

心踊らされた一首であった。 2016年2月15日 

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by blue-lulubul | 2016-02-15 17:38 | 短歌作品批評

真田太平記(七)関ケ原

人心を得てなきことに気の付かず石田三成「関ケ原」に負けし
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関ケ原付近略図



by blue-lulubul | 2016-02-14 12:29
「魔空に遊ぶ」lulubul

 歌集『影 KAGE』は山下和夫先生の第九歌集です。
 歌集『鼓 TSUZUMI』以後の2009年から2015年3月までの420首を選んだと「あとがき」に記してあります。
 この歌集は劇的な運命を担うことになりました。
 実は2015年7月27日(月曜日)六郷短歌会例会に山下先生は出版仕立て上がりをお持ちになり、「私の最後の歌集だよ。」とおっしゃりながら本の遊び紙に会員それぞれの名前を記入して下さいました。いつもはご自分の短歌の一節を認めますのに、今回はそれぞれの名前の上に「恵存(けいぞん)」と記されました。
 そして…、三日後の7月30日(木曜日)にお亡くなりになってしまわれたのです。
 生前には、生徒が文章や短歌に「師」という語を使うのを嫌がりましたが、我々にとって偉大な師であることを、誰憚ることなく表明させて頂き、今、先生と書かせて頂きます。
 先生の「あとがき」には、(…実在と非在の間を観察し、異化することで、これは、楽しいプロセスでもあった。)とあります。ご逝去なされる直前まで短歌という神秘な世界に遊んでおられたことは、我々にとっては、悲しくも嬉しいことです。
 さて、歌集『影』について、感じたことを少し書かせて頂きます。
 まず、歌集全体に観察力の深さと鋭さが、研ぎ澄まされて詰まっています。そして、豊かな感性を理性と意志によって制御している歌群であることが伝わって来ます。
 「影」という、現実にあるものでも多分に主観的要素を含む不思議な現象に着目し、それを歌の素材の中心に置き、あらゆる角度から凝視した歌々は圧巻というほかありません。
 正に作歌の神髄であるところの「現実と抽象の被膜を詠うべき」という概念を体現しています。
 「影」という字の使われている歌を数えましたら、何と216首ありました。これだけの数を揃えていても読んでいて飽きさせないのです。それは、レトリックの冴えに、プラス日常に沿った思いを詠っていて飛躍しすぎていないところからくるのだろうと思われます。
 読み終わってみると、生きるとはいかなる状況下に於いても常に新鮮であるということを知らしめているようで、後から続いてゆくものにとって、倦むことの不安から解放させられたように思われました。
 影は作者自身であり、自己を俯瞰し客観視するには最適な素材でした。
 そのことに気付いて、およそ考え付く限りを詠いきった気迫がこもった歌集がここに遺産となりました。
●振り向けど影もうしろを振り向いてまっことわれの貌が見えない
●なすがままのわれに無言に従える影蹴上げれば蹴返されたり
 影の持つ外面的な本質を突いている二首です。
●気づきやる時のみ影は濃くなりてわれより深くわれを見ている
 この歌は、人間の内に持つ本質を影を用いて具体的に表現しています。
 小題「0ゼロ」の歌々は、素材の質としては、「影」に近いものだと思われます。先生の思考回路を辿らせて頂くには、最適な歌で、例会でのご様子が偲ばれます。
●身を軸に枝で描きたる0(ゼロ)の中すとんと円筒の空が落ちきつ
 この歌は、題材を非現実化・異常化してその知覚の過程に注意を向けさせる作用を芸術の特質とした異化の歌です。
 小題「影Ⅱ4 歌」では先生の短歌に対する思いが正に集大成のように詠われています。
それし矢をひたに追いゆく落魄の翼か藍きこの小詩型
 1994年6月1日発行の『埴』6月号の歌集紹介文「魔空への走者たち(2)」の中に山下先生の次の文があるので引用させて頂きます。
ー31音というこの定型詩は、のめり込めば、のめり込むほどに、その人をがんじがらめに虜にしてしまう魔性を持っている。この魔性の漂う空へ果敢に突っ込んでいった者達は遂にはあのイカルスのように翼を焼かれて落下する宿命者であるー
 でも、山下先生の場合は、この詩形の魔性を上手く手懐けて、思うままに弄んでいたように私には思えるのです。今、肉体という規制を外されて、輝く魔空を翔ているお姿を想像しています。
 手元に残されたサインの「恵存」の意味は(人にものを贈る時に先方の名の脇に書き添えて「どうかお手元にお置きください」の意を表す。)語です。図らずも遺言となってしまったこの言葉が、短歌を手放していけないという約定に思えてなりません。
●紅モミジ沈透(しず)ける湖を飲み発てる鳥天辺に炎と燃えつきん
 精神を透明に燃やしていた先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
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by blue-lulubul | 2016-02-08 20:19
これよりは敵と味方の父・兄弟それぞれに聴(き)く折の雷鳴
父(真田昌幸)弟(真田幸村)→ 上杉景勝・石田三成の西軍方
兄(真田信行)→ 徳川家康の東軍方
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by blue-lulubul | 2016-02-03 14:02

猫カフェの猫

不特定の人間たちを癒しつつ野を駆ける夢見るや猫カフェの猫
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by blue-lulubul | 2016-02-01 08:39