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無の歌

       かげろうにゆれいる石に来て座る われも少しずつ気化してゆかん
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   HANI 2013年8月1日締切り分(222号)
    特集「無の歌」
                       スパイラルの外           

人間は、「無」を認識している。
 それは、「有る」ものが「無い」という二次元的捉え方が一般的であろうと思われる。
これは、哲学に於いての存在論と同じである。
だが、突き詰めてゆけば、「無」とは他の何ものとも比較や対立と交わらないものであり、全ての制限も拘束も及ばないところにあるというものではないだろうか。でも、この考え方は存在論を超える「絶対無」という、多分に東洋的思想であるらしい。
『ウィキペディア』フリー百科事典によれば、「有」を絶対的なものとして、「無」は付随的なものと、「知」で解釈する傾向が西洋の思惟であり、「無」を「心」に重点を置いた思考をするのが東洋であるという。
現代の物理学では、何も無いはずの真空から電子と陽電子の一対が突然出現することが発見され、完全な無は存在しないとされている。
では、短歌の場合はどのように「無」を取り上げ、どのように詠っているのか、探してみると、具体的表現の裏に隠されている詠い方が多い。
 ここでは、数少なかった「無」という表記のあった歌を取り上げてみる。
次に挙げる歌は、昭和四年に刊行された斎藤茂吉の第七歌集『たかはら』の一首である。
*飛行機のなかに居るゆゑにや暫しだに懺悔横著のこころ無かりき
この年、茂吉は四十八歳になっている。第六歌集『ともしび』の時代の、自宅の病院の全焼と復興に精魂尽き果てた生活からようやく抜け出られた頃であった。が、健康の衰えを自覚して診察を受け養生を要した時期でもあった。そうした背景を持つこの歌の「無」は、心の中の思いの一部分であるところの(懺悔)と(横着)だけに焦点を絞って、それが無いと述べている。何故無いのかの原因は、上の句で述べている。
ここでの「無」は、存在(有)に対する(無)という、哲学的思想に基づいている。しかし、素材は「こころ」なのである。
次に挙げる歌は、平成十四年に刊行された谷井美恵子の第四歌集『白雁一首である。
*地の上になきものの影ゆらゆらと水の底ひにまじはりてゐつ地上にいないものとは死者であろう。その、居ない筈のものの影が水の交わって揺れているという。
この歌は、インドに於ける「無の概念」に近い。日本では、「何も存在しないこと」を「無」と言うが、インドでは、存在しないことを「無が存在する」と言うそうである。驚くべきことに紀元前五世紀にはインド最古の宗教文献の『ヴェーダ』に整理されて記述されているという。
そういえば、数学に於いて無に対応する概念としての0(零)を発見したのもインドであった。
先に示した『ウィキペディアフリー百科事典』には、―0(零)は、本来は位取り記数法で空位の桁を表す記号として考案された。0の発見により数学は無を記述できるようになつた。―とある。
それに関連した歌を次に挙げる。
平成一五年六月に刊行された山下和夫の第六歌集『錯』の一首である。
*ゼロと一のはざま無限の底無しの暗きかなたへ声を放ちぬ
初句の「ゼロと一」という数の限定は、読者がより理解しやすいように、具体的に状態提示した表現方法であると受け取るべきであろう。
一見(有に対する無である)という哲学的思想に思われるが、むしろ、(過去に無く、未来に無く、現在にも無い。)という「畢竟無」という仏教思想や、(有と無の対立を超えた絶対な根源としての無)と捉えている禅宗の思想に近いであろう。
ところで、次に挙げる歌はどのようなものであろうか。
平成二三年HANI一月号に掲載された山下和夫八十四歳の作である。
*死を死にし歩みに影を先だてて心というがまだ見えてこぬ(死ぬことを死んだ)とは生き返った。蘇生したことで、黄泉からかえる意である。「死という無の世界」で死んだのである。
一度死の渕という無の世界を覗いて来た作者が、これからの生き方を自らに問うている。この歌、「影」も「心」も確かに「有」のものであるが、実体のつかめないものである。
短歌の場合は、描かれていないものを主体とし、脇の付属物を描いて浮き立たせる表現法もある。
 私はこの歌を広い意味での「無」の歌の分野に入れたいと思う。
短歌という、三十一文字前後しか用いられない枠の中で、渦を巻くように悪足掻きしていると、ある時遠心分離機から放り出されるような思いにかられる   
枠あればこそ、発想は無へと広がってゆくのである。
ここに、短歌こそ「無」を表現するのに適していると再認識する。
 
          2013年4月4日(木)lulubul
by blue-lulubul | 2013-04-04 13:49