短歌鑑賞
2016年 12月 27日
『短歌研究2017年 1月号』
~現代歌人百人一首-ふるさとのかたち 掲載の歌の解析 lulubul
「かつて城在りし段丘の空仰ぐ形なくてここに守り来しもの」
河岸段丘の沼田城址。城なくて真田の物語が人を呼ぶ。
滅びずに守られてきた見えないものが町を支えている。
田村奈緒美 (かりん)~群馬県沼田市~
思いとか、心とか、実態のないものを形あるものに置き換えるのが言葉を使った創作の真髄の一つである。
この歌は、かつてそこに在って現在は消え失せてしまった城の存在を伝えている。
三句までの上の句は無いものを詠い、四句五句の下の句では存在していながら、目には見えていないものを詠っているという三句切れの構図である。
無いものを表現するのには、言葉を使う芸術の一つである短歌には適していると言える。だが、実態のないものを形に置き換えるというのはそう簡単なことではない。作者はその辺の修辞法に長(た)けているのである。
さて、テーマの「ふるさとのかたち」を表現するにあたり、作者の真に言いたい「かたち」とはいかなるものであろうか、魅力的な表現の添付された文章を読めばわかりやすいが、先ずは短歌のみの表現の中から探ってみたい。
上の句で、作者の現在の立ち位置を明確に表現している。「かつては城があった段丘」の、今は何も無くなった空間にある空だけを「仰いでいる」のである。
ここで、初句をわざわざ七音にして「段丘」でなく「城」を強調している。例えば「段丘のかつて城在りし空仰ぐ」でも、かまわない訳である。意味の上からは同じなのだ。わざわざ破調にしてまで作者は城への思いを伝えたいのである。
また、「段丘」と「城」の二つの主役を用いて片方の「段丘」を脇役にしているのでる。では、「段丘」を削ったらどうだろうか?
やはり必要なのである。なぜなら、歌の中に「真田」あるいは「沼田城」という表記が無いからである。
日本全国の中でも「河岸段丘」と言えば「沼田」とは、夙に名が知れているので、短い字数の中で見事に使用されていると思われる。
そして、斬新で知的なのは下の句の表現方法である。
四句の「形なくて」には、(城)という、存在していたが今は見えていないものと、(この土地に暮らす人々の心意気)という現実に存在してはいるが、人間の眼によっては確認できないないものという二つの見えないものが含まれているのである。このたった七音で、目に見える現実の世界よりもはるかに広く豊かな私的幻想の世界を読者に味わわせてくれるのである。
作者は、河岸段丘を見上げる位置から、今は無き城と、城を彩った物語と、ふるさと人の心意気という三つの見えないものを見上げている。過ぎてゆく時間を縦軸に、見えない城を挟んで、過去の人々の思いと現在の人々の思いとが作者の身の中で交差しているのである。
結句では、「守り来しもの」と名詞止にしている。ゆえに余韻が残り、その後ろに付くべき言葉が一つではなく、広がりを持たせられる。
例えば「守り来しものは何」「守り来しもの 故郷」「守り来しものは矜持」「守り来しものは歴史」等々、いくらでもいえるであろう。しかし、こうして羅列してみると原作の方がいかに広がりを持っているかわかるであろう。
時代の離れた二つの世界の人々の心を一つの大地の上に繋いで、同時に見ている表現方法が摩訶不思議な雰囲気を醸し出し、短歌を面白くして、読者を楽しませてくれた。
故郷を愛おしむ作者の姿をも彷彿とさせられたのである。
幸村の声に呼ばれて振り向けば白金のごとく石積みは輝る lulubul
~現代歌人百人一首-ふるさとのかたち 掲載の歌の解析 lulubul
「かつて城在りし段丘の空仰ぐ形なくてここに守り来しもの」
河岸段丘の沼田城址。城なくて真田の物語が人を呼ぶ。
滅びずに守られてきた見えないものが町を支えている。
田村奈緒美 (かりん)~群馬県沼田市~
思いとか、心とか、実態のないものを形あるものに置き換えるのが言葉を使った創作の真髄の一つである。
この歌は、かつてそこに在って現在は消え失せてしまった城の存在を伝えている。
三句までの上の句は無いものを詠い、四句五句の下の句では存在していながら、目には見えていないものを詠っているという三句切れの構図である。
無いものを表現するのには、言葉を使う芸術の一つである短歌には適していると言える。だが、実態のないものを形に置き換えるというのはそう簡単なことではない。作者はその辺の修辞法に長(た)けているのである。
さて、テーマの「ふるさとのかたち」を表現するにあたり、作者の真に言いたい「かたち」とはいかなるものであろうか、魅力的な表現の添付された文章を読めばわかりやすいが、先ずは短歌のみの表現の中から探ってみたい。
上の句で、作者の現在の立ち位置を明確に表現している。「かつては城があった段丘」の、今は何も無くなった空間にある空だけを「仰いでいる」のである。
ここで、初句をわざわざ七音にして「段丘」でなく「城」を強調している。例えば「段丘のかつて城在りし空仰ぐ」でも、かまわない訳である。意味の上からは同じなのだ。わざわざ破調にしてまで作者は城への思いを伝えたいのである。
また、「段丘」と「城」の二つの主役を用いて片方の「段丘」を脇役にしているのでる。では、「段丘」を削ったらどうだろうか?
やはり必要なのである。なぜなら、歌の中に「真田」あるいは「沼田城」という表記が無いからである。
日本全国の中でも「河岸段丘」と言えば「沼田」とは、夙に名が知れているので、短い字数の中で見事に使用されていると思われる。
そして、斬新で知的なのは下の句の表現方法である。
四句の「形なくて」には、(城)という、存在していたが今は見えていないものと、(この土地に暮らす人々の心意気)という現実に存在してはいるが、人間の眼によっては確認できないないものという二つの見えないものが含まれているのである。このたった七音で、目に見える現実の世界よりもはるかに広く豊かな私的幻想の世界を読者に味わわせてくれるのである。
作者は、河岸段丘を見上げる位置から、今は無き城と、城を彩った物語と、ふるさと人の心意気という三つの見えないものを見上げている。過ぎてゆく時間を縦軸に、見えない城を挟んで、過去の人々の思いと現在の人々の思いとが作者の身の中で交差しているのである。
結句では、「守り来しもの」と名詞止にしている。ゆえに余韻が残り、その後ろに付くべき言葉が一つではなく、広がりを持たせられる。
例えば「守り来しものは何」「守り来しもの 故郷」「守り来しものは矜持」「守り来しものは歴史」等々、いくらでもいえるであろう。しかし、こうして羅列してみると原作の方がいかに広がりを持っているかわかるであろう。
時代の離れた二つの世界の人々の心を一つの大地の上に繋いで、同時に見ている表現方法が摩訶不思議な雰囲気を醸し出し、短歌を面白くして、読者を楽しませてくれた。
故郷を愛おしむ作者の姿をも彷彿とさせられたのである。
幸村の声に呼ばれて振り向けば白金のごとく石積みは輝る lulubul
by blue-lulubul
| 2016-12-27 09:29